命の線引き

延命治療。

言葉だけは知っていた。

ドラマで見た事もある。

それを選択する家族が苦悩するシーン。

自分に当てはめて考えた事もある。

でも、どこか遠い世界の事だった。

目の前に、

その選択が迫られるかもしれないという事が

現実みを帯びるまで…。

これまで、

寝たきりや車いすとは無縁の世界。

親戚の入院や危篤の話を聞いても、

大変さのイメージが真実味を帯びなかった。

今年5月、危篤状態に陥った

父の親戚が、救急車で病院に運ばれ

延命治療の選択を迫られた。

子供達の一人が強く希望したために

延命治療がなされた。

そして、3か月。

体に管と装置をつけられ、

父の親戚は、今も”生きて”いる。

ただし、もう病院にはいない。

入院可能な期間は通常、3か月。

退院を余儀なくされた親戚は、

時々、何かの拍子に指が動く程度で

ほとんど意識がないまま

施設に入所した。

延命治療を希望した子供の近くの施設に。

病院に入院している間、

家族の見舞いの回数は減ったらしい。

お見舞いに行っても、話す事も出来ず、

ただ、ベッドに横たわる姿を見るだけだから…。

”生きる”とは、何だろう。。。

父が入院した今、

私達家族にも

延命治療の決断を求められる時が来るかもしれない。

その時、何を持って、父の命の線引きをしたらいいのだろう。

いくつになっていたら、

”十分生きた”事になるのだろう?

意識が戻った時、

どうしたいかを父に尋ねる事が必要なのか…。

では、父の答えと周りの人間の考えが違っていたら…。

きっと、そこに正解はなく、

どの選択をしても、何かしらの後悔は残るのだろう。

生きる事は人生の結末への道筋。

日々の暮しの積み重ねが

その人生の終末をより豊かなものにしていく。

そう、思い知らされた時、

なぜ、今まで、父と人生の結末について

真面目に話をしてこなかったのかと後悔が残る。

父の大切にしていたものの事は、

聞いていたけれど、

肝心な事は聞けなかった。

「もし、お父さんに何かあった時、

延命治療について聞かれたら、

どうすればいい?」とは…。

未来を生きる話は希望に満ち、

弾む会話となる事が多い。

でも、

人生の終末の話を老いた親とする事は難しい。

ひょっとしたら

父が元気な時に、父にとっての

生きる意味や人生観などを

和やかな時間の中で

自然と聞ていたら、

これほど、不安に思う事は

なかったのかもしれない。

今の時代、人は忙しさに追われ、

自分にとって大切な人と

大事な事を話し合う

そんな機会を持つ事を

おざなりにしている人が

多いのかもしれない。

やらなければならない事が

山積みの毎日。

時間に追われ、雑事に追われ、

ほっとする時間さえ持てない生活。

果てしなく続くかと思える

追い立てられるような暮しも

いつかは、必ず終わりが来る。

令和、最初の秋の夜長。

「自分にとって生きるとは?」

「十分生ききったと思える状態とは?」

「自分にとって人生の幸せな結末とは?」

心の中で、そっと、

問いかけてみませんか?
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