1 息子の心の闇を知った日
「僕の心の中には
大きなブラックホールがある。
それがすごいしんどい。」
初めて
その言葉を聞いたのは
息子が小4の時でした。
学級会で息子が議題になるほど
彼が学校で荒れていた頃です。
その言葉が重すぎて
一緒に台所で泣くしかなかった。
その時は
声を震わす息子に
”どう声をかけていいのか”
”何をすればいいのか”
全く分かりませんでした。
さらに
仕事に追われていた私は
「この状況にきりをつけて
次の事をやらないと!」と
心の中で他の事を考えていました。
当時の担任の先生との相性は最悪。
家庭訪問では1時間以上のお説教。
親の”しつけの悪さ”を指摘され続け、
どうすればいいか悩んでいた時。
普通の家なら良かったのに
母親の私は家庭科の講師。
息子のしつけさえまともに出来ない人間が
子供達の前で偉そうに
”家庭生活”を語るなんて…。
息子の事で
自分に自信が持てない日々。
その告白の後、
どんな話をしたのか記憶にないけれど、
苦しんでいる息子と
ちゃんと向き合えなかった心地悪さが
ずっと残ってしまいました。
2 心の闇は私が原因だと知った日
小学校の高学年になった息子は、
担任の先生に恵まれ
以前ほど暴力的ではなくなりました。
体が大きく運動能力も高く
運動会などで活躍する事も
出来て順調な日々。
そこに影を落としてしまったのが
中学受験でした。
息子が育った場所は
私学に通う子が多く
小学生の塾通いは
ほぼ当たり前の状況。
阪神大震災で家を失くし
新しい土地に引っ越し
そこで子育てをしていた私に
他の選択肢はありませんでした。
息子を受験勉強に追い立て
「問題が解けたらゲームしていいよ」
という約束も守らず
最悪の教育ママでした。
その中で第一志望とはほど遠い
中高一貫の私学に合格し入学。
そこは、
とにかく1点でも偏差値を上げ
”いい”大学に合格するための学校でした。
ギスギスした学校生活の中で
協調性に欠ける息子は
担任やクラスメートに
ひどい扱いを受けていたと
後で知りました。
まるでストーカー規制のように
「他の子達に
半径〇メートル以内に近寄るな」
と命令されたり…。
なぜ後で知ったかというと
本人が何も言わなかったから。
言えるはずがなかった…と
今では思います。
当時の私は職場を
公立から私学に移し
家庭科の教材作りに追われる日々。
「もう小学校の頃のような
面倒は勘弁してね!」という
オーラ出しまくりでした。
バカ親だった私は下の娘も
私学に通わせるつもりで
教育費を稼ぐために
仕事が最優先の日々。
そして
息子が高2になったある日。
学校でついに暴力事件を起こし
指導が入る事になりました。
学校にかけつけ息子と
一緒に帰宅する道すがら
ようやく息子の口から
これまでの
本当の学校生活の様子を
知る事が出来たのです。
誰にも言えなかった自分への攻撃。
実は小学校の頃も
ランドセルに石を詰め込まれたり
後ろでに腕をつかまれて
数人から暴力を受けていた事を知りました。
息子の小学校での暴力は
自分を守るためのものであった事を…。
「そんな事、知らなかった…。」
当たり前です。
いつも髪を振り乱して
忙しそうにしている私に
言えるはずがなかった。
守ってもらえる人も
安心できる場所も
何もない中で
年を重ねさせてしまった息子。
今は後悔してもしきれません。
3 闇に光をさそうとした日
高校での指導により
息子は大学に希望を託し
受験勉強に励むようになりました。
ただ
あまりに管理的な勉強のさせ方に
反感を持ち
「やっぱり退学する!」
高3の2学期の終わり
に突然そう言われた時は
本当にびっくりしました。
親として腹をくくり
それも一つの選択かと
受け入れる直前、
学校から推薦入学を進められ
無事に大学入学。
息子がキャンパスライフを
楽しめたのは数か月。
家庭でトラブルが起き、
それが原因で
大学での人間関係にも
ひびが入り
家にこもるようになりました。
一年休学したものの
単位は何とかとり卒業に。
でも、
就活はうまく行きません。
あの頃は
次の日の仕事のために
早く寝ようとしている枕元で
「お前が俺の人生を台無しにした」
「俺の人生を返せ」
そういわれ続け
頭がおかしくなりそうだった。
そして、
それをきっかけに
私はコーチングの世界へに
足を踏み入れます。
でもね、
今考えると
息子は誰かを攻撃する事で
自分の中の果てしなく深い
心の闇に少しでも光をさそうと
していたのではないかとも
思うのです。
4 闇をふさいだ日々
卒業直前に
派遣という形だったけど
決まった就職。
一緒にスーツを買いに行った日は
心が弾んでうれしかった。
その後、
転職を重ねながら
東京で頑張る息子は
私の誇りでした。
ただね、
ずっと心の奥底で
不安は感じていたんです。
「そんな働き方をしていて大丈夫?」
それほど
息子の働き方は私から見ると
常軌を逸していました。
本来の仕事に加え
個人で副業も始めた彼は
たまに帰省した時も
いつも本当に忙しそうで
睡眠時間もあまりとっていない感じ。
当然、食生活もひどそうで
食べる事自体に興味がない様子。
健康管理なんて
どうでもいいという雰囲気で
猛スピードで
人生を駆け抜けているという
イメージでした。
それはまるで
自分の中にある闇をのぞく
時間を取らないように
しているかのようで
闇をふさいだ生き方に見えました。
5 闇に向き合う覚悟
いつもなら
何かの用事にかこつけて
数か月に一度は連絡があるのに
パタッと途絶えてから半年以上。
春先に大きな
取引先に契約を解除されて
大変だという話を聞いてから
こちらから連絡をとっても
短い返事が返ってくるだけ。
お気楽な私は
心のどこかで不安を感じながら
「きっと大丈夫だよね」
「何とかやってるよね」
そう自分に言い聞かせて
息子の事は
考えないようにしていました。
それが…。
この年末年始、
かなり長い期間、
帰省してもいいかと
連絡が来たのです。
今はリモートの時代だから
どこでも仕事出来るし
こっちでするんだろう。
そう思ったものの…。
そもそも
実家が好きでない息子が
そんなに長くこっちにいるなんて
「何かあったに違いない」
不安は膨らむばかりです。
そこで
息子の様子を知っていそうな人に
連絡を取り
聞いてしまったのです。
「かなりやばいみたいだよ。
仕事も人間関係もうまく
行ってないみたい。
ひょっとしたら
借金も膨らんでるかも。
プライド高いから
親には泣きつかない
かもしれないけど。」
「やっぱりそうか…」
涙が出た。
予想はしていたけれど
そこまでひどい状況とは
思っていなかった…。
真っ暗闇の中
立ち尽くす息子が見えた
気がしました。
小学生の時も
大学の時も
私は何の役にも立てなかった。
けれど
今度は違う。
私自身も
いろいろな人生経験を積んだ。
一緒に闇にのみこまれ
落ちていかない自分がある。
これまで
無理に無理を重ねて
生きているように見えた
息子の人生にとって
これが大きな
ターニングポイントに
なるのだとしたら
とことん付き合おうと
覚悟が出来ました。
長期の帰省の間
彼が何をどこまで
話してくれるかは
分かりませんが…
”いまの私にできること”は
3つだけ。
・あたたかいご飯をつくる。
・ちゃんと向き合う。
・どんな事も受け入れる。
6 先生という仕事と子育て
いま、私自身が人生の
ターニングポイントを迎えて
つくづく思うのが
先生という仕事と子育ての
両立の難しさです。
純粋に子供達が大好きで
何の迷いもなく先生という仕事を
している人にとっては
簡単なのかもしれません。
でも、昔の私のように
近くに頼れる実家もなく
夫は企業戦士で
子育てはワンオペ。
家庭科の仕事自体に
面白さは感じているけど
進学校での存在感は希薄で
やりがいを見出すのは
なかなか難しい。
その中で
たとえ
非常勤講師で
勤務日が少なくても
持ち帰りの仕事も多く
一年契約でいつも
緊張を強いられていると
仕事の方にバランスが傾き
子育てがおろそかになる人も
いるかもしれません。
今、振り返ると…
「仕事はいくらでも
代わりはいるけど
大事な時期に
おろそかにしてしまった
子供との時間は
取り戻す事は出来ないよ」
そう周りの人達から
言われたのに
私は
仕事の方を優先してしまった。
たかが
非常勤講師なのにね…。
それは息子以上に高い
私のプライドだったのか
社会の中での居場所を
失いたくないという不安だったのか
今となっては分かりません。
今の学校は本当に
やる事が多くて
家庭をお持ちの先生方は
子育てと仕事の両立が
ますます難しくなって
来ているのだろうと思います。
そんな中でどう
バランスをとっていくか
それを決めるのは自分です。
経験から一つだけ言えるのは
どうぞ
お子さんと
「絶対に向き合わなければ
タイミングをはずさないで」
という事です。
息子が小4のあの日に
戻れたら
先生ではなく
優しい母でいられたら
きっと息子の人生は
大きく変わっていたはずだから…。
〈終わり〉