自分が一番見下していた”私の仕事”:進学校の家庭科講師がたどりついた天職

1 豆腐が導いた家庭科の世界
「誰か、お豆腐屋さんで”にがり”を
もらって来てくれる?
次の実習で豆腐作りをするから必要なの」
中学の時の家庭科の先生の
この一言が私の人生を変えた。

調理実習は生徒達の自主性に任せて
先生自身はちょっと高度なモノを作って
生徒達に試食させてくれる。
被服実習は中学生では扱いずらい
ニットの糸と伸縮性の大きい生地で
Tシャツを作らせる。
今考えると、
その先生の家庭科の指導は
通常の実習からは大きくずれていた。

それでも、
私にとっては魔法の時間だった。
自分達を信じて任せてくれるのが
誇らしくうれしくて一生懸命頑張った。

その先生の頼み事なら、
朝、どれだけ早起きしなければならなくても
「私が行く!」
先生の役に立てるだけでうれしかった。

実習で豆腐が出来た時の感動は忘れない。
ほんのりあたたかく
甘みがあって美味しかった。
家庭科は私にとっては
何でも作れる最高の科目だった。

この時の経験と恩師の存在で
中学時代
家庭科は大好きな科目となった。

2 受験下請けの主要科目VS副科目
ただ、厄介な事に好きだけど
がさつで繊細さに欠ける私にとって
家庭科は一番苦手科目。

特に裁縫は最悪。
母が洋裁学校出で
私の学校の制服も自分で縫う程の
腕前だったから、
被服実習で作った私の作品は
”ぼろきれ”扱い。
すっかり自信を失くしてしまった。

さらに高校の家庭科は
専任の先生が休職中で
授業や実習を受け持ったのは
あまりやる気にない非常勤講師の先生。
授業も実習も中学と比べたら雲泥の差で
心底ショックだった。

だったら関わらなければ良かったのに、
なぜか先輩に見込まれて
”家庭科クラブ”の会長になってしまった私。FHJ:”Future Homemakers of Japan”。
その全国組織があり
ホームプロジェクトの県大会に
出場も果たしたのだった…。

後々考えると
これが進路を決定づける事になる。
大きな大会への出場にメンバーと一緒に
放課後まで自分達だけで残って
練習を重ねたのに、大会当日、
スライドを見せるための機械が
練習して来たものとは全く違うものだと判明。
散々な結果におわった。

原因は講師の先生による連絡ミス。
当時は講師を恨んだけど、
逆に自分が指導者になって
「生徒達を全国大会に連れて行きたい!」
という夢に変わった。

それでも悩んでいたのは、
家庭科が得意科目ではなかった事。

根っからの文系で国語は大得意! 
やっぱり教師になるなら国語よね。
と思っていたんだけど…。

職員室に行くたびに見る
国語の先生方は
授業時間ごとの漢字や古語の小テストの
採点に追われていた。

テストの出題も文章から読み取れる事なんて
個人で違うから面白いのに
模範解答に近くないと点数はもらえない。

現代文の表現方法や文脈から
様々な読み取りが出来る楽しさ、
古文や漢文の奥深さ。
そんなものは受験勉強には無関係。
(当時の私にはそう見えた。)

ならばいっそ一番苦手な家庭科で
”家庭科が苦手な子の気持ちがわかる”教師を
目指そう!

なんていうこじつけで
選んでしまった進路だった。

家政学部に行くなら、
やっぱり頂点のお茶の水大学と
行きたい所だったけど、
予備校も塾もない
九州のど田舎で
ギリギリで入れたのは
奈良女子大学だった。

3 異端児扱いの生活経営との出会い
第一志望の食物学科は
点数が足りずアウト。
第二志望の生活経営学科に入学した事が
次の大きな転機。

いわゆる衣食住の家政学の本流から
かけ離れた内容は
私にとってはありがたかった。

家族社会学、家庭経営学、生活福祉など
興味深い科目が並んでいた。
ただ、大学時代は部活とバイト三昧で、
それらの科目の奥深さに
気づいたのは教師になってからだった。

4 人生初めての挫折は教員採用試験
家庭生活は小さい頃から
波乱万丈だったけど
試験には強かった私。

なのに
4回生の時の採用試験は
最終面接で不合格に…。
理由は分かっていた。
ろくに顔を出していなかった
ボランティア活動の事を
願書に書いてしまい、
その事を根掘り葉掘り聞かれて
答えられなかったから。
(こんな事をすると
罰があたるのだと痛感した体験。)

本当は大学を卒業したら
地元の九州に戻ると親に約束していたのに、
どうしても関西に残りたかった私。

だって地元で教師になったら、
祖父・父・私と三代続きとなる。
祖父も父もあくの強い有名人。

そんな所で色眼鏡で見られながら、
教師なんて出来ないと当時は考えてしまった…。(ただね、子育てを考えると、
やっぱり自分の親の近くで
仕事する方がよかった。
これは自分の人生で一番の後悔。)

5 コンプレックスと採用試験合格への道
採用試験に受からなかった私には
非常勤講師の口しかなかった。
講師の収入では
生活が出来ないだろうと
当時付き合っていた人と
卒業と同時に結婚する事になる。
(これは人生で二番目の後悔。
結婚相手は焦らず決めた方が
絶対にいい。)

大学の時の友人達は
社会に出てバリバリ働き出したのに
非常勤講師で
週に数回しか仕事に行かず、
平日に家にいる所在なさを
想像してもらえるだろうか?

本当に自分が役立たずに思え
楽し気に仕事をしていた主人とは
喧嘩が絶えなかった。

一念発起して
再度採用試験に挑み、
卒業から2年後に教師に採用された。

これがまた農業科の分校という
特殊な学校だったけど
教師のイロハを教えていただいた。
とても濃密な家庭科教師経験を
送らせてもらった2年間。

6 人生最大の岐路(仕事か駐在員の妻か)
教師生活にも慣れて来た2年目に
主人にシリコンバレー行きの話が
持ち上がる。
実は高校の時、
英語教師になりたいと思ったほど
英語が好きだった私。
発音は超苦手だったけど
アメリカには強い想いがあった。

しかも、
”駐在員の妻”というのは
なかなかのステータス。
行く場所がカリフォルニアというのも
気持ちをくすぐった。

散々迷った末に
教師は帰国しても、
またやれるだろうと退職を決めた。
(これが人生で三つ目の後悔。
やはり正規採用の仕事は
簡単に手放すのはもったいない。)

7 アメリカ生活が落とす暗い影
元家庭科教師として
アメリカで
一番やってみたかった事は出産! 
アメリカ国籍の子供が欲しかったのと、
文化の違う所で子育てをする事で
帰国後の授業で生徒達に何かを
伝えられたらと思っていた。

ただ生まれた息子は手がかかり、
帰国してもワンオペ育児で
学校に戻るなんて夢のまた夢。

息子を遊びに連れていっていた
公園のママ友グループから
仲間はずれにされないように
英語も自重。
先生の仕事をしていた事も
いわなった。

そこで始まった”二人目を作る競争”に
ついて行こうとようやく妊娠したら、
阪神大震災で
当時住んでいたマンションは全壊。
引っ越しを余儀なくされる。

8 子育てと非常勤講師の両立の始まり
この引っ越しが
実は学校現場に戻る転機となったのは
皮肉な話だ。

当時、通信制で働いていた友達に
声をかけてもらい休日の家庭科の授業と
レポート添削の仕事を再開。

通勤がギリギリ可能な場所に
引っ越していた事で可能となった。
ワンオペ育児と
仕事の両立は大変だったけど
通勤の電車だけでも
一人になれたのはありがたかった。

通信制での授業は
一方通行の講義がほとんど。
50分という時間、
どうしたら生徒達の関心を
持たせ続ける事が出来るかを
考えて工夫し続けた8年間だった。

生徒さん達の年齢幅が
10代から70代と大きかったのも
家庭科講師として勉強になった学校。

9 まぶし過ぎた昼間の普通科
一気に転機が来たのは
子供達が小学校に入学した頃。

通信制で雇止めにあった事で
次の職場を探していた時、
紹介していただいたのが今の勤務校。

この時期は非常勤講師を続けるか、
海外生活を活かした児童英語講師の仕事に
シフトするのか迷いに迷っていた頃。
自分で主催していた
子供対象英語教室のレッスンと
2つの普通校での家庭科の授業と
子育てで駆け抜けていくような毎日。

結局、英語教室は
いろいろな事情で閉室してしまった。
一番大きかったのは
集客がうまく出来なかった事。

このタイミングで公立から
私立に職場を変えたので、
生徒を学校が集めてくれる
私立での仕事をとった形となった。

10 私立で家庭科の仕事を始めた代償
進学校での
家庭科の授業や実習の指導は、
ある意味エッセンシャルワーク。
カリキュラムにあるから
やるしかないけど
優先度は高くない。

大学受験のための勉強には
関係がないと見なされる。

生徒達の言葉の端々や
他の先生方の対応などから
勝手に
感じ取ってしまう”不要感”。

これが自分を苦しめていく。
公立に勤めていた頃は
年度の最後には
「先生みたいな家庭科の先生になりたい💛」
って言ってくれる生徒がいて、
それだけで満たされていた。

でも進学校の男子校に
そんなものは望めるはずがない。

段々、自虐的になり
自分自身が家庭科という科目を
見下していくようになってしまった。

それを払拭したいがために
何とか家庭科に意味付けをしようと
必死になった時期もある。

少しずつはやり出した
”プレゼンテーション”の指導に力を入れたり、
”アイデア発想”の大切さと
面白さを伝えるために
”マインドマップ”の学内の
指導資格を取ったり、
ビジネスが重視された時代には
ひたすらビジネス書を読み漁ったり…。

何とか自分を立派に
賢く見せようとする努力のために
どれだけの本を読んだだろう。

そして速読法の講座まで受ける! 
こうなると病気?というか、
次々に面白そうな事が
目の前に出てきて
”セミナージプシー”となってしまった。
(離婚願望が強かった時期でもあったので
経済的に自立もしたかったから。)

最後に行きついた私の仕事
そうしているうちに
セミナーで出会う信念を持った
自分軸がしっかりしている人達に
ジェラシーを感じるようになる。

というか、
私も何か大きな見地で
自分にしか出来ない事をしていきたいと
心から思い始めた。

その想いは
子供達が独立して社会に出て、
家からも出て行ってから
益々強くなっていった。

これまで自分がしてきた事、
お金と労力をつぎ込んで取った資格を
何とか活かしてお金にしたい! 
経済的に自立したい! 

そんな下心からビジネス講座を
受講し起業を考えるようになる。

なのに、
いざとなると動けない。
失敗するのが怖い。
始めたはいいが誰も
見向きもしてくれなかったら恥だと
準備ばかり入念にする。

頭で企画ばかり考えて
何の行動にもうつさない。
そんな自分に嫌悪しつつも
進み始めた道は戻れない。

そして、今、
長い年月を経て、
ようやく気付いた事がある。
「私はやっぱり家庭科が好き」

だったら
家庭科の先生達をサポートする
仕事をすればいいのだと。

そこに自分が培ってきた経験や
取った資格を活かせばいいのだと。
こんなに簡単な事に
気づくまで10年以上かかった。

今は胸を張って言える。
「私の仕事は
家庭科の先生のサポートをしていく事」。
ずっと勉強してきたコーチングを
ベースに
家庭科ライフコーチとして生きていく。
きっと、これが探し続けてきた
天職と確信できたから。

こうして
振り返ってみて思うのは、
”天職”とか”好きを仕事に”って言うけれど、
ある程度
何かの仕事を続ける事で
天職になっていくものもあるという事。

そしてその仕事の
リアルのしんどさばかりに
気を取られて
”好き”という気持ちを忘れている
だけかもしれないという事。

もし、仕事で悩んでいたら、
それを始めた頃の気持ちや
夢を思い出してみるといいと思う。
きっと、
今の仕事が違って見えるはずだから。
〈終わり〉

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